フィリピンの海

私が35歳でフィリピンに移住した理由(前編)

私が初めてフィリピンに来たのは33歳のときでした。
それまで、自分が将来海外に住むなんて1ミリたりとも予想していませんでした

人生は想像以上に奇天烈で奇想天外です。だから面白い。
今回はその経緯をクロニクル形式で紹介します。

前編・後編の2回になりますが、よろしければお付き合いくださいm(_ _)m

ゆるふわ社会人時代

もう15年以上前になりますが、新卒で就職した頃の私は、先の人生をぼんやりとこんな風に考えていました。

きっといつかは誰かと結婚するんだろうなぁ。
それで、もしかしたら子どもを産んで育てたりするのかもなぁ。

「結婚して子どもを産みたい」と思っていたわけではなく、なんとなくそれが人生のレールだと思っていました。
当時は今ほど生き方の多様性が浸透していなかったこともあり、他の道が思い浮かびませんでした。

でも数年経っても結婚どころかその予感もなく、30代が見えた頃には「ああ、これは一人で生きていくパターンかも」と思うようになりました。
自分の想像していたレールと違うので多少怖くはありましたが、仕事は忙しいし、趣味も楽しいし、遊んでくれる仲間もいるし、別にいいかと思いました。

我ながら人生計画が皆無というか、ゆるふわの痛い大人でした。

そんな感じで迎えた2011年。
東日本大震災が起きました。

当時私は新浦安で一人暮らしをしていました。
埋立地の新浦安は震災で液状化し、私の住んでいた街は約1カ月の間上下水道が使えませんでした

身体は無事だし、家も無事だし、目に見える被害はほとんどない。
ただ水道とお風呂とトイレが使えないだけ。

東北の惨状とは比べ物になりませんが、それでも私の住んでいた街からは人が消えました
入浴ができず、排便ができず、自炊もできない場所には、現代人は住むことはできないのです。
これは私にとって初めての被災経験でしたが、上下水道が使えないだけで街は死ぬということを、このときに身を以って学びました。

熊本から出てきて一人暮らしだった私は、他に行く所がありませんでした。
毎日真っ暗で人気のない街へ帰り、水が使えない家のなかでじっと朝を待ちました。
勤めていた東京の職場には同じ状況の人はいなかったので、銭湯通いのために早帰りしなければいけない事情を理解してもらうのにも気を揉みました。

このとき私は人生で初めて、自分の孤独に絶望しました。

私には、困ったときに助けを求められるような人が周りに一人もいませんでした
同僚や親戚は「泊まりに来ていいよ」と手を差し伸べてくれましたが、迷惑に思われたくなくて、素直に甘えられませんでした。

そもそも私は、普段から自分の都合を最優先して、周りとの付き合いを軽んじていました。
「誰にも迷惑をかけられたくないから、私も誰にも迷惑をかけない」
無意識のうちにそんな風に考えるようになっていました。

その結果が今の孤独だと気づきました。
最小限の付き合いの中で、自分勝手に生きてきた。
だから自分が困っても、助けを求められる人はいないのだと。

どんなに一人で生きている気になったとしても、現実は誰かと助け合わないと生きていけない。
ああ、自分はこうして一人で死んでいくんだなと実感しました。
その絶望感は筆舌に尽くしがたいものでした。
今でも、真っ暗な街へ一人で帰っていくあの日々の絶望感は忘れられません。

そして多分人生で初めて、「一人は嫌だ」と強く思いました。

死ぬまで一人で生きていけると思っていたけど、それは壮大な勘違いだった。
人生を共に生き抜く仲間がほしい。
明日死ぬとわかっても最後まで笑いあえるような仲間がほしい。

こうして「自分の家族を持ちたい」と思うようになりました。

当時は「震災婚」の流行やナンパの成功率が上がったといったニュースもあったくらい、震災をきっかけに人生の孤独を実感した人はきっと少なくなかったと思います。

自分探し迷走時代

とはいえ、いきなり婚活というのも抵抗がありました。
そもそも、どうも自分は人付き合いに関して致命的な欠陥を抱えている気がしてなりませんでした

例えば、全く悪気なく友達や恋人を傷つけてしまったり、周りの人に「あの人は他人に対して壁をつくっている」と思われてしまうことがときどきありました。
こんな状態で家族を持つなんて無謀ではないかと思ったわけです。

というわけで、まずは自分に何か魅力を持たせようと考えました。
そもそも今までは人生をより良くするための主体的な努力など一切せず、「今日生きていればそれでいいや」という惰性で過ごしてきてしまっていました。
なのでまずは何か、自分に自信がつくような目標を定めることにしました。

で、具体的に以下のような目標を立てました。

  • 5kg以上痩せる
  • 髪型とファッションを変える
  • 一人で海外旅行に行く
  • 楽団でコンチェルトに挑戦する

もともとの負けず嫌いな性格もあって、これらの目標はすべてクリアできました。
特に見た目については、黒髪ロングを茶髪ショートに変え、最終的に13kg痩せ、小学生以来のミニスカートやショートパンツを穿くようになり、かなりガラッと変わりました。

海外旅行は、会社のリフレッシュ休暇制度を利用して1カ月の休みを取り、一人でエーゲ海クルーズに行きました。
(クルーズ旅行の記事はこちら
ツアー参加とはいえ初めての一人海外旅行で、清水の舞台から飛び降りる勢いの勇気を振り絞りましたが、結果ものすごく楽しくて、自分の新たな一面を発見できた気がしました。

楽団では自分にはとても弾きこなせない難易度のコンチェルトに挑戦させてもらい、練習しても練習してもできなくて毎日悪夢を見るくらいしんどかったですが、逃げずになんとかやりきることができました。

他にもこまごまと新しい何かに挑戦して、多少失敗しつつもそれなりに結果を出し、少しずつ自信にもなりました。

ただ、いろいろやったにもかかわらず、自分に魅力が付加されたとは依然として思えませんでした。
自分の家族が持てそうな実感も湧かないままでした。

目指せ世界一周時代

結局ただ迷走してしまった自分探し活動ですが、一つ光明がありました。
それは一人海外旅行がものすごく楽しかったこと

見たことのない景色、嗅いだことのない匂い、聞いたことのない言葉、五感で触れる何もかもが新鮮でした。
毎日が刺激的で、全身の細胞が活性化して「俺は生きているぞー!」と叫んでいるような感覚でした。
惰性で生きてきた私にとって、それはすごく快感で充実を感じる日々でした。

もっといろんな国を自由気ままに周ってみたい。
リミットなしで旅ができたらどんなに楽しいだろうと考えるようになりました。

同時に、一つの会社に居続ける自分の人生に懐疑的になっていきました。
このまま他の組織を知らずに歳を重ねてしまっていいんだろうか。
そもそも自分は会社という一つの居場所に依存しすぎではないか、そんな風に思うようになりました。

ここで初めて、「よし、会社を辞めよう」と決意しました。
会社を辞めて、地球をぐるっと一周するくらい旅してみよう。
見たことのない世界を気の済むまで見て、その後でまた新しい仕事に挑戦してみようと決めました。

今思えば、このときの「会社を辞めて世界一周しよう」という決断が私の人生のターニングポイントでした。
ここから先は、自分の周りの世界が恐ろしいほどのスピードで変化していきました。

まず、インターネットを通して、自分と同じように世界一周を目指す仲間たちに出会いました。
世代も性別も職業もバラバラで、なかには自分と同じように会社員を辞めて旅立つという人や、世界一周した後教師になって子どもたちに世界のリアルを伝えたいという人一度も就職したことがなくて路上演奏の稼ぎだけで旅をする予定の人など、自分が今までの人生で一度も交わったことがないような人たちにたくさん出会いました。

そんな仲間たちと話すうちに、自分の思考がどれだけ凝り固まっていたか、自分が今まで見てきた世界がいかに狭かったかに気づかされました。
今思えばこのときに出会った仲間こそ、私が人生で渇望していたものでした。

これは漫画「HUNTER×HUNTER」でジンが言ったセリフです。

念願かなって、王墓の中に足を踏み入れたとき、オレが一番嬉しかったのは、ずっと願ってた王墓の「真実」を目の当たりにした事じゃなく、一緒に中へ入った連中と顔を見合わせて握手した瞬間だった。
そいつらは今も無償で役員をしながら、オレに生きた情報をくれる。
この連中と比べたら、王墓の「真実」はただのおまけさ。
大切なものは、欲しいものより先に来た。

まさにこれでした。
私が欲しかったのは「世界一周で経験する未知の何か」だったけど、それより先に得た仲間こそが、私の人生の大切な宝物になりました。
彼らとは世界一周中も何度か合流したり、帰国後も集まって旅や人生について語り合いました。
旅を終えて2年以上経つ今でも、私にとってかけがえのない友人です。

というわけで、このときの仲間に背中を押してもらいながら、なんとか旅の資金を貯め、多少ゴタつきながらも円満退職して、33歳の春に日本を飛び立ちました。

日本を出国したあの日の興奮は忘れられません。
当時の日記にはこんな風に書いていました。

興奮、緊張、感謝、寂寥、恐怖、いろんな感情がごちゃまぜな中で、一つの言葉が燦然と輝いている。

「自由」

33年間、常に何かに属していた。家族、学校、会社、地域。少し先の未来は常に決まっていた。なんて恵まれた環境に居たんだろう。迷うことさえほとんどなく、まっすぐに道を歩いてきた。

でも今は何もない。仕事も、収入も、住む場所さえも。明日も、明後日も、その次の日もずっと、何の制約もなく、何の遠慮もなく、すべての予定は自分次第。

こんな日が来るなんて、どうして想像できただろう。未曾有の自由。途方に暮れてしまうほどの。全身がゾクゾクして、鳥肌が立って、今すぐ全力で駆け出したくなる。こんな感覚が存在するなんて知らなかった。この感覚を味わえただけでも、旅に出ることを決めて、本当に良かった。

孤独も、不安も、淋しさも、全部抱きしめていく。今私は間違いなく、果てしない自由に溺れている。

前編ここまで。
後編は「フィリピン留学時代」からです。

↓後編はこちら

私が35歳でフィリピンに移住した理由(後編)

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