フィリピン_シキホール島

私が35歳でフィリピンに移住した理由(後編)

海外に住むなんて1ミリたりとも予想していなかった私が、35歳でフィリピンに移住することになった経緯を紹介している記事の後編です。

↓前編はこちら

私が35歳でフィリピンに移住した理由(前編)

フィリピン留学時代

シキホール島の夕日

前編で書いた通り、世界一周に向けて出国した当日はかなり舞い上がっていたわけですが、一つ問題がありました。
それは英語が全く話せなかったこと

そこで、まず最初の2カ月は、格安で有名なフィリピンの語学学校に留学することにしました。
2カ月でなんとか旅行に必要な会話力を身につけてから、本格的な旅に出発しようという魂胆でした。

が、ここでいきなり予定が狂いました。
留学を延長して、結果4カ月もフィリピンにいてしまったんです。

延長した理由は3つ。

  1. フィリピンが面白すぎた
    もともと海外経験が少なかった私には、フィリピンという国は刺激的すぎました。
    裕福と貧困の混在、日本とは違いすぎる価値観、この世のものとは思えない綺麗な海、もう何もかもが新鮮すぎて、その魔性の魅力から抜け出せなくなりました。
  2. 働きたくなった
    社畜11年の刷り込みなのか、退職してまだ2カ月しか経ってなかったのに、働きたくなってしまいました。
    しかも海外で働くなんて経歴としてかっこいいなと思い、旅を延期して語学学校でインターンをさせてもらうことにしました。
  3. 彼氏ができた
    同じ語学学校に通っていた韓国人の生徒さんを好きになってしまい、期間を延長してアタックし、半ば強引に「結婚前提の付き合い」に持ち込みました。

特に理由3は、私にとって人生を大きく左右する出来事でした。
人生の目的としていた「家族が欲しい」の相手を、こんなにすぐ見つけてしまうとは思いもしませんでした。

そして、今まであんなに人との付き合いに自信がなかったのに、フィリピンに来た途端いきなり積極的になったことに自分でも驚きました。
「ゆるふわ社会人時代」や「自分探し迷走時代」(※前編参照)の自分だったら、アタックすることすらできなかったはずです。
新しいことに少しずつチャレンジしていくなかで、自分でも気づかないうちに内面に変化が起きていたようです。

ただ、家族になりたい人は見つかったものの、このままで本当に家族になれるのか不安でした。
そもそも、国籍も住む国も違う人とどうしたら一緒にいられるのか、そのときは見当がつきませんでした。
それまでは、世界一周が終わったら日本に戻ってこれまで通り日本で働くイメージしかなかったからです。

それに、「いろんな国を自由気ままに旅してみたい」という目的をまだ果たしていませんでした。
知らない世界に触れて視野を広げれば、何かヒントが見つかるかもしれない。
彼氏とは早速遠距離になってしまうけど、後々悔いを残さないためにも、当初の予定通り世界一周に出発することにしました。

世界一周時代

フィリピンを出た後、東南アジア→中央アジア→ヨーロッパと周っていきました。

タイの寝台列車
タイで人生初の寝台列車
シルクロード
憧れのシルクロード
ユルタ
謎に満ちた中央アジア
ハンガリーの夜景
美しさに圧倒されたヨーロッパ
モロッコのサハラ砂漠
夢だったサハラ砂漠(アフリカ大陸はモロッコだけ行きました)

旅は想像通り、いや想像以上の楽しさでした。
知らない土地を歩くのも、その先の景色を見るのも最高に刺激的でした。
その土地ならではの料理を食べたり、旅先で出会った人と拙い英語で話したりするのも本当に楽しかった。

その一方で、焦りや虚しさも感じるようになりました

短い滞在ではその国の本質になかなか気づけないこと。
だんだん「旅で見聞きすること」よりも「旅すること」が目的になってきてしまっていること。
何より、この楽しさを共有したい人が今隣にいないこと。

一人で国々を転々とすることに、果たしてどれだけの意味があるのかわからなくなりました。

そんな中、イギリスのコッツウォルズに辿りつきました。

コッツウォルズ

コッツウォルズの景色は、私にとってまさに人知を超えた美しさでした。
感動のあまり息が止まるほどでした。

そのときの日記がこちら。

絶景に全身が打ち震えるほど感動したガン患者の身体から、ガン細胞が消えていたという奇跡の話を聞いたことがある。とても信じられなかったけど、今となっては「そういうこともあるだろうな」と思う。丘の上からこの景色を見たとき、自分の身体には明らかに細胞レベルの変化が起きていたと思うからだ。

今まで感じてきたもの全てが、目の前の景色に吸い込まれていくような気がした。喜びも悲しみも、美しいものも醜いものも、自分の中の全てが一度打ち消されて、再び一つに帰っていくような感覚だった。

そのうち、ありとあらゆる記憶が蘇ってきた。もう死んでもいいと思えるくらい幸せだった日のことも、大切な人を深く傷つけてしまった日のことも。愚かすぎた過ちも、後悔しかなかった時間も、全てが景色に吸い込まれていった。

人は無意識のうちに、許しを乞うて生きているのかもしれないと思う。1人では生きていけない我々は、生きているだけで必ず誰かを傷つけ、必ず誰かに傷つけられている。なのに厄介なことに、それを直視し続けられるほど頑丈ではない。

景色に全てを吸い込まれた後、嬉しくて涙が溢れてきた。もう自分を否定しなくてもいいんだと思えた。これでやっと、自分の足で歩いていける。本当の意味で、人と寄り添って生きていけると思えた。

ああ、私の旅は、ここでこうして許されるための旅だったんだなと思った。

こうして、あまりにも唐突に自己否定感がなくなりました
人付き合いの不安も消えてしまいました。

この後もしばらく旅を続けましたが、アメリカ大陸へは渡らずに帰国することにしました。
世界一周ならぬ世界半周になってしまったけど、自分の旅に完全に満足できたので、もう迷いはありませんでした。

派遣社員+副業時代

帰国後、目下の目標はフィリピンで彼氏と一緒に過ごせる道を見つけることでした。

まずは旅行で使い果たしたお金を再び貯めるため、期間限定で働ける派遣社員として再就職しました。
並行して、TOEICや貿易実務など海外での就業に役立ちそうな資格を取っていきました。

ただ、その後も休みの度にフィリピンや韓国に彼氏に会いに行ってしまったので、なかなかお金が貯まりませんでした。
そこで、クラウドソーシングサービスを利用して、副業でデザインの仕事にチャレンジしてみることにしました。

副業は最初は全く上手くいきませんでしたが、根気よく続けるうちに少しずつ収入が増えていきました。
そうしてようやく軌道に乗ってきたタイミングで、「フィリピンでリモートワーク」という今のスタイルに思い至りました。

これで「フィリピンで彼氏と一緒にいられる道」はなんとか目処が立ちました。
ただ、日本で働いているうちに、別の願望もフツフツと湧いてきました。

それは、「もう一度いろんな国を周る旅がしてみたい」というものでした。

帰国した後の私は、以前のように卑屈になることはなくなり、新しい職場でも生き生きと過ごせている実感がありました。
でも少しずつ、酸素が薄くなっていくような息苦しさを感じるようになっていきました。

これがそのときの日記です。

日本はびっくりするほど安全で、清潔で、便利で、とにかく快適だ。いろんな国を訪れて「世界は広い」と思い知ったけど、それでも「こんなに快適な国は地球上でただ一つなんじゃないか」と思っちゃうほどに。そんな日本という国を築き上げるのに、先人たちのどれだけの知恵と工夫と努力があったことだろう。

なのに私はその「ありがたさ」に、いとも簡単にかまけてしまう。稀有だとわかっている筈なのに、すぐに「あって当然」と思ってしまう。

やがてその快適さが少しでも損なわれると、それだけで不満を持つようになる。それを自分以外の誰かの不備や失敗のせいにしたくなる。ネチネチと責め立てたくなる。「私は悪くないのに」と言いたくなる。

自分は決して失敗するまい、誰からも責められるまいと、自分で自分を膜で何重にも覆っていく。息がとんどん苦しくなる。いつのまにか、膜の中にいる真っさらな自分がどんな姿だったか、自分でもわからなくなっていく。

かつてのように、劣等感に苛まれて逃げ出すような後ろめたさは無くなった。ただ、膜の中の自分が「お前が闘う場所はここじゃない」と言っている気がする。そう感じてしまってからはもう、もう一度旅に出たくてしょうがなくなった。

今はただひたすら、旅をしていたあの時間が恋しい。暇さえあれば思い出している。かいだことのない匂いの街。見たことのない色の海。聞いたことのない言葉の歌。人生で一番、思いっきり息ができた9カ月。

暮らしの基盤はフィリピンで、でもときどき他の国にも働きながら滞在したい
そんなわがままなライフスタイルが私の目標になりました。

再出国〜現在

こうしてリモートワークの目処が立ち、貯金がある程度貯まった35歳の冬、私はフィリピンに移住しました。

今のところはフィリピンで収支を成り立たせるのに精一杯で、「ときどき他の国にも滞在する」というスタイルはまだ実現できていません。
実現できるかどうかは、この先のブログで乞ご期待です。

以上、「私が35歳でフィリピンに移住した理由」でした。
読んでくださってありがとうございました!

関連コンテンツ